息障院。比企郡吉見町御所にある真言宗智山派寺院
息障院。比企郡吉見町御所にある真言宗智山派寺院の岩殿山息障院の縁起と所蔵の文化財等を、新編武蔵風土記稿等からの引用を交えて案内。伝行基菩薩開基、伝坂上田村麻呂将軍開基、平将門調伏の護摩を行なった吉見護摩堂、源範頼尊称吉見御所の館跡
息障院 当山は、真言宗智山派に属し、岩殿山息障院光明寺と称する。 開創は古く、天平年中(七三〇年ごろ)行基菩薩によるといわれている。また、大同年中(八〇六年ごろ)坂上田村麻呂将軍の開基によるとも伝えられている。 古くは吉見護摩堂と称し、天慶の乱の折、平将門調伏の護摩を修し、その功により息障院の号を下賜されている。 現在の境内地は、源範頼の館跡といわれ、県の指定旧跡となっている。 本尊は不動明王であり、平安時代末~鎌倉初期のもので定朝様式を伝える傑作といわれ、県指定の有形文化財である。 当山の全盛期は、戦国時代から江戸時代で、その当時は、末寺百二十余か寺を数え、隆盛を極めたものである。(吉見町・埼玉県掲示より)
息障院所蔵の文化財
- 源範頼館跡(県指定重要文化財)
- 本尊不動明王坐像(県指定重要文化財)
- 地蔵堂
(御所村) 居所蹟 相傳ふ蒲冠者源範頼の城蹟なりしと、岩殿觀音縁起に、範頼幼穉の頃平治の亂に没落し、岩殿山に遷り彼地に生長す、兄賴朝志を得て、後範頼當所を領して此所に居と云、【東鑑】にまさしく範頼の住所を記さずといへども、治承五年閏二月志田三郎義廣、鎌倉を謀る時、小山朝政と下野國登々呂木澤の邊にて戰ひしに、下河邊行平等、古我高野等の渡を固む、範頼も同来て、朝政が勢いに馳加ると云へり、急卒の朝馳来るときは、遠路を隔しにはあらじ、當所より高野邊までは相距こと遠からず、當時範頼當所に居しにや、吉見系圖を案るに、範頼の男阿闍梨範國吉見を氏とし、次郎と稱すとあり、想に此人建久四年範頼生害の後爰に来り、其子孫相繼て此所に住せしなるべし、範國の男爲賴其孫義世、永仁四年隠謀顯て誅せられし由、系譜に見えたり、又【東鑑】文治三年十月十三日の條に、畠山次郎重忠が所領伊勢國沼田御厨を召放たれ、吉見次郎賴綱に充行はる云々と戴、これ範頼の男にや、されど系譜には見えず。(新編武蔵風土記稿より)