ネルソン・マンデラ:南アフリカの国父はどのように偉業を達成したか?
ネルソン・マンデラ:南アフリカの国父はどのように偉業を達成したか?
ネルソン・マンデラは南アフリカの政治家で大統領(1918−2013)。若い頃には、人種差別的なアパルトヘイト政策の政府と武力で対立した。20年以上の投獄生活を経て、政治家として活躍し、アパルトヘイトの終焉に貢献し、ノーベル平和賞をえた。南アフリカの民主化にも貢献し、大統領として活躍した。世界的に名声を確立している。自伝や映画も注目を浴びている。 この記事では、マンデラの生涯や功績、限界、評価などを詳しく説明する。マンデラについて薄く知りたい方よりもしっかり知りたい方に適している。
ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)の生涯
1918年、マンデラは南アフリカの部族の家に生まれた。もともとはネルソンという名前ではなかったが、この名前は1925年に小学校の教師によって名付けられた。 この頃、南アフリカでは黒人や先住民のための特別な法制度が成立した。すなわち、南アフリカでは白人と黒人の法制度が別物になっていく。 その後も、黒人の国民は選挙権を奪われるなど、南アフリカではアパルトヘイト(人種隔離政策)の基礎が形成されていく。 1934年、マンデラは割礼を受けた。その後、キリスト教系の学校に進んだ。この頃には、政府の人種差別的な政策に疑問を抱き始めた。 1939年、マンデラはフォートヘア大学で学ぶ。学生運動に関わった際に、大学から追放される。ヨハネスブルクに移り、鉱山で働く。その後、大学に戻る。
法律と民族運動と1942年、マンデラはアフリカ民族会議(ANC)に参加するようになる。1943年にはフォート・ヘア大学を卒業する。ウィットウォーターズランド大学で学び始める。 1944年、アフリカ民族会議の青年同盟の執行委員に選ばれる。ウィットウォーターズランド大学の法学部を卒業する。この頃に結婚する。 1945年、第二次世界大戦が終わった。アフリカはながらく西洋諸国の植民地であった。ここから、アフリカでは反植民地運動が本格化していく。その際に、民族主義者がその主要な担い手の一つとなっていく。しばしば武力を用いて、西洋諸国からの独立を目指す。
南アフリカのアパルトヘイトの確立 エピソード:大学でのアパルトヘイトにマンデラが憤る上述のように、マンデラはウィットウォーターズランド大学で法学を学んでいた。そこでは、人種差別で悪名高いハーマン・ロバート・ハーロ教授の授業に参加した。 ハーロ教授は、女性とアフリカ人には法律の複雑さを習得するのに十分な能力がないと公言していた。これは彼独自の単なる差別的な偏見ではない。 まず、類似の見解はそれまでのヨーロッパの法律や法学にもみられた。たとえば、ローマ法である。法律がすべての人間を対象にしているようにみせかけて、実は一部の人間を対象外にしていた。 その際に、その一部の人間は知的に未成熟であり、事実として「未成年者」や子供と同じだと考えられた。野蛮人とみなされた外国人などは、知的なレベルでは子供と同じである。よって、彼らは法律をまともに理解できないので、利用できない、と。 ハーロ教授は女性やアフリカ人がそのような「未成年者」だと公言していた。マンデラはこれに憤った。アフリカ民族会議の青年同盟の宣言において、アフリカ人を「永遠の未成年者」とみなす南アフリカの法律を糾弾した。
なぜ逮捕されたかこの頃には、マンデラはアフリカ民族会議で全国執行委員会に加わった。1951年には、その青年同盟のトップに選出された。アフリカ民族会議は民族運動の主導的役割を担っていく。 1952年には、マンデラはその運動で逮捕され、半年間の追放令に処された。アフリカ民族会議の副会長になった。同年、マンデラは弁護士としてのキャリアを開始した。そのキャリアとアフリカ民族会議での活動を2つの軸とした。 だが、1956年、マンデラはほかの弁護士たちとともに逮捕され、反逆罪で訴えられた。その裁判が1961年まで続く。その間に、マンデラは離婚し、再婚した。 その頃には、南アフリカでは、アパルトヘイト政策の推進とともに、反アパルトヘイトの活動が組織化されていった。 1960年、70人ほどのデモ隊が警察によって殺害され、非常事態宣言が出された。アフリカ民族会議が禁止され、非合法となった。マンデラは逮捕され、拘留される。上述の反逆罪での裁判が行われる。翌年、無罪で釈放され、地下活動に移る。 1962年、マンデラはアフリカ民族会議への支援をえようとして、アフリカ各地やイギリスを訪れた。また、軍事訓練を受けるためでもあった。だが、同年、煽動罪などで逮捕された。
この時期のマンデラの限界この時期のマンデラは野心的な活動家だった。反政府の武力闘争に乗り出したが、夢想的で無謀な面もあった。そのため、逮捕に至った。 当時の反アパルトヘイト運動は必ずしも暴力的ではなかった。そのため、マンデラの軽率な武力行使がこの運動に傷をつけたとも評されている。 他方で、この時期のマンデラはアフリカの民族主義と非人種主義の間で揺れ動いていた。アフリカ人のための戦いか、それとも、アフリカ人かどうか関係なく、自国の状況を改善するための戦いか。 この選択はアフリカで広くみられるものだった。マンデラは最終的に、非人種主義を選ぶことになる。
投獄生活の時期ここから、1990年に釈放されるまでの長い囚人生活が始まる。この期間は彼の人生の1/3ほどを占める。 1963年には、マンデラはロベン島に移送される。その後、破壊工作、ゲリラ戦の推進などの罪に問われる。 1964年、マンデラは有名な演説を行うが、終身刑をくだされる。 この時期のマンデラの裁判は、国内外で衝撃的なものとして受け止められた。そこには闘争のドラマが見出された。彼の国際的な知名度が高まった。だが、南アフリカの民族運動自体は後退していった。
国内外の状況の変化戦後、アジア・アフリカの時代が到来し、アフリカでも多くの国が西洋の宗主国から独立していった。世界的に人権への意識が高まっていった。そのような中で、1973年、国連は南アフリカのアパルトヘイトを人道に対する罪として糾弾した。 このような世界的な大きな変化の中で、1975年、マンデラは有名となる自伝の執筆を開始した。 1976年、南アフリカでソウェト蜂起が起こった。これは学生や一般の人たちが中心となった反人種主義運動である。 これが功を奏して、1979年、労使関係法が黒人の労働組合を合法と認めた。黒人の社会的権利が部分的であれ認められたのだ。 その頃、1980年、南アフリカのサンデーポスト紙がマンデラ釈放キャンペーンを開始し、全国規模に広げる。 同年、マンデラは国際理解に貢献したとして、国外からネルー賞を授与された。国際的な評価の高まりが見て取れる。マンデラらは別の刑務所に移送された。 1984年、南アフリカでは、アフリカ人を除外した人種別の三院制議会が成立した。これをきっかけに、アパルトヘイト反対の運動が急激に進展していき、政府と衝突した。 1985年、政府は非常事態宣言を発令し、その運動を武力で鎮圧しようとした。国際社会は南アフリカへの処遇をより厳しくし、経済制裁を強化した。そのため、国内の財界がアパルトヘイト政策の見直しを政府に求めた。 同年、大統領は暴力の放棄を条件に、マンデラに自由を与えると打診する。マンデラはこれを拒否する。その時の主張は、ジャブラニ・スタジアムで娘ジンジ・マンデラによって群衆に読み上げられた。 その頃、妻ウィニー・マンデラは暴力を推進すると思われるような過激な演説を行い、拿捕される。 その後、マンデラは釈放にむけて政府と話し合いを始める。そこにイギリス人らも関わる。アフリカ民族会議のほかのメンバーの釈放の交渉も進められる。だが、マンデラの釈放はなかなか実現されなかった。
マンデラの獄中生活の様子マンデラの獄中生活そのものは、特に大きな出来事もなく、淡々としたものだった。 投獄中に、マンデラは外部と接触を許されることもあった。たとえば、記者や、 アメリカ法曹協会と国際赤十字の訪問を受けた。 この時期に、マンデラの世界でのイメージはさらに重要性を帯びていった。彼は世界で最もよく知られた囚人となった。さらに、人種的な不正からの解放を求める同胞たちの象徴となった。 マンデラは人種主義との戦いの殉教者として称賛され、聖人のようにみられていく。マンデラはこのイメージの肥大化に苦しんだ。 国内では、マンデラは民族団体から売国奴とみなされたこともあった。政府高官との協議を開始するという彼の独断は同様に非難された。 政府はマンデラを、共産主義者であり、無垢な人々を殺したテロリストだと喧伝した。
獄中での成長獄中生活はマンデラの思想を深め、彼自身が成長するのに役立った。その際に、マンデラは獄中で読書から大きな収穫を得た。 たとえば、ストア主義思想の影響が重要である。古代ローマの哲学者セネカの著作や皇帝マルクス・アウレリウスの有名な『自省録』である。 これらの本において、全人類が一つであり、ともに結びついていると論じられていた。さらに、逆境の運命に面しながら、どのように自身の精神を落ち着かせ、それを乗り越えればよいのかが論じられていた。 マンデラはこれらの本を通して、どのようにして自分自身の感情をコントロールして、現在の逆境に立ち向かえばよいかを学んだ。人類はひとつという、非人種主義の思想にも共感した。
自由と解放同時に、マンデラは自由の闘士として成長していった。上述のように、マンデラはアフリカ主義と非人種主義の間で揺れ動いていた。だが、次のように非人種主義へとさらに進んでいった。 マンデラは人種差別が犠牲者だけでなく抑圧者をも蝕んでいると考えた。他人の自由を奪う者は憎しみに囚われており、偏見と偏狭の鉄格子の中に閉じ込められている。よって、彼らもまた、人種主義により、人間性を奪われている。 人種差別の加害者をその牢獄から解放しなければならない。被害者と加害者の双方に自由を与える。アフリカ人にも白人にも。マンデラはかくして人種間の和解へと動いていく。
釈放と合法化へ:アパルトヘイトの終わり1989年、アフリカ人などとの話し合いを推進するデクラークが大統領になった。1990年、マンデラはついに釈放される。マンデラはその際に、群衆に挨拶するために力強く敬礼した光景が有名である。 アフリカ民族会議などの政治団体の禁止も解除された。マンデラはその副会長に復帰する。翌年には会長になる。 マンデラはアフリカ民族会議を主導し、政府との交渉を進める。アフリカ民族会議の武闘派を抑え込み、政府との武装闘争をやめると発表した。同時に、アメリカやイギリスを訪問し、議会で演説も行った。 1991年、南アフリカは大きな転機を迎えた。アパルトヘイト諸法がついに廃止されたのだ。国際的な制裁も解除された。南アフリカの民主化へのプロセスが進められる。
マンデラの躍進の背景マンデラは国内で民衆からの支持を獲得していった。その原因の一つは、彼自身の優れた政治パフォーマンスにある。彼の優雅で堂々とした外見と、計算し尽くされた政治パフォーマンスのふるまいの結果であった。 他方で、他のアクターが彼の支持拡大に寄与したともいえる。たとえば、アフリカ民族会議は国際的な影響力をえるために、マンデラの功績を広く宣伝した。 さらに、政府はアパルトヘイト政治の行き詰まりを打開するために、マンデラのイメージを利用した。かつて、政府はマンデラをテロなどの恐怖の象徴として利用し、白人から支持を得ようとしていた。だが、いまやマンデラを新しい政治の希望の象徴へと変化させて利用した。
エピソード:マンデラの妻たち他方で、マンデラの最初の妻で、すでに離婚していたエブリンは、マンデラへの国内外の熱狂ぶりを苦々しく思っていた。 特に、マンデラは釈放の際に、あたかも救世主キリストがこの世界に復活したかのようにメディアで取り上げられていた。エブリンは信心深いキリスト教徒だった。彼女は言う。 ネルソンはただの人間である。ネルソンについてそのように言う人はとても愚かだ。 不倫して妻子を捨てた男がキリストになれるわけがない。 世界中がネルソンを崇拝しすぎている” 、と。
和解の政治国内では依然として武力対立の火種がくすぶり、時として燃え上がった。そのため、マンデラは白人とそれ以外の国民の対立に終止符を打とうとして、両者に和解を訴えた。 双方が憎しみ合っている限り、新しい体制は根付かず、壊されてしまうからである。 マンデラは和解の政治のシンボルとしても有名である。ここで、次のようなキリスト教的な見方が重要となってくる。敵の赦しとメシア的救済である。 どういうことか。キリスト教では、キリストは敵を愛するよう教える。さらに、キリスト自身が人類の罪を赦すためにこの世に到来した人類の救世主だと考えられている。 マンデラは次のように、このキリストのような役割を和解の政治で担っていると考えられてきた。 南アフリカの白人は、アパルトヘイトによって他人種の国民を抑圧し、いわば大きな罪を犯していた。そのかわりに、白人の特権を享受してきた。だが、国内外で厳しい評価を受けてきた。 一部の白人はこれまでのアパルトヘイトに良心の呵責を感じた。そこに、マンデラが和解を訴えた。白人以外の国民が白人の人種差別の罪を赦すよう訴えたのだ。マンデラは白人の罪の赦しをもたらすメシア(救世主)とみなされた。 このイメージは、それまでの人種主義との戦いの殉教者や聖人というイメージの延長線上にあるといえる。 南アフリカの白人の国民にはキリスト教徒が多かった。そのため、和解の政治は白人の国民にも魅力的となり、白人からも支持されていった。解放と自由を白人とそれ以外の人種の双方に与えるものとして、支持されていった。
南アフリカの民主化へ: ノーベル平和賞 1993年、民主化への移行プロセスの中で、南アフリカの共産党の指導者クリス・ハニが暗殺された。マンデラがテレビに出演し、国民に冷静になるよう呼びかける。 南アフリカの大統領へ ラグビーのワールドカップ1995年、ラグビーワールドカップが南アフリカで開催された。南アフリカはこれに優勝した。 マンデラがエリスパーク競技場に姿を現し、白人を含んだ観衆から喝采を浴びる。 なお、このワールドカップでのマンデラはイーストウッドの映画作品でフィーチャーされている。
大統領の時期マンデラは自国で精力的に活動するだけでなく、国際的に積極的に活動した。アフリカの人権状況の改善に尽力した。 マンデラの大統領としての仕事ぶりについては、賛否が割れている。 肯定的な評価ほど、マンデラが民主主義と和解を達成したことに焦点を当てる傾向がある。たとえば、マンデラは国民を分裂から統合へ至らせる政府を設置した。さらに、アパルトヘイト時代の不正を明らかにするために、真実和解委員会を設置した。 否定的な評価は、経済政策に焦点を当てる傾向がある。マンデラは経済発展のために、新自由主義的経済政策を選んだ。これがもたらした負の影響が着目されている。
大統領の勇退1999年、総選挙でアフリカ民族会議が再び勝利した。マンデラはムベキに大統領の地位を譲った。 アフリカでは、権力の座に長くいつづける指導者が多かった。これにたいし、マンデラは民主的な仕方で権力をわずか4年間で次世代に引き渡した。マンデラは南アフリカの民主主義を定着させようとしたのだった。 南アフリカの民主化という点で、マンデラは大統領としてリーダーシップを発揮し、重要な貢献をした。だが、彼のリーダーシップにこそ、民主化への弊害もあったと指摘されている。 たとえば、マンデラは党首というより国家元首に近かった。閣議を開催せずに決定を下すこともしばしばあった。 マンデラ自身が国民からの大きな支持を得て、大きな権威を勝ち取っていた。単独の権威者による政治は民主主義というより権威主義的であるともいえた。
最晩年の活動その後も、マンデラは国内外の政策への批判を展開する。特に、アフリカでのエイズ対策について発言を強めた。世界平和と人権のため、エルダーズ・グループという国際的な組織を設立した。 国際的な名声はさらに高まっていく。2009年には、誕生日の7月18日が国際ネルソン・マンデラ・デーとして国連に採択された。 南アフリカにマンデラの像が建てられ、2012年には肖像が南アフリカの貨幣に採用される。2013年には、アメリカのオバマ大統領が南アフリカを訪問し、上述のロベン島の刑務所を見学して、マンデラの功績を称える。同年末、マンデラは病没した。
マンデラの評価マンデラは好意的な評価が多い。これまでもすでにいくつかの評価をみてきた。ここでは、ほかの評価も紹介しよう。 マンデラはそれまでのアパルトヘイト国家としての南アフリカの評判を大きく変化させた人物として知られる。国際社会からそのために強い経済制裁を受けるほどの評判の悪さだった。 これが、マンデラの解放と和解の政治によって、大きく改善された。そのため、マンデラは革新の美学、転換の倫理、革命の政治と結びつけられた。 だが、マンデラの成功はその後の南アフリカでは十分に根付かなかった。そのため、マンデラの時代は「夢の時代」とも評される。次のムベキの時代は「夢の続きの時代」である。さらにその後の時代は、「夢の後の時代」である、と。 マンデラは夢を、ユートピアをもたらす人物と評された。この夢は大衆の民主主義の到来である。個人の幸福と治安の安定を両立させる社会の到来である。 この関連で、マンデラはガンジーのような非暴力主義者と評されることがある。あるいは、ファノンのような暴力抵抗主義者である、と。 だが、マンデラはそのいずれでもなかった。マンデラは状況に応じて手段を変える戦略家だった。軍事的手段と長期的目的そして民衆の支持の間の複雑な相互関係を理解し、常に政治的結果を重視した。よって、軍事手段を否定しなかった。
マンデラとマスメディア:映画やテレビマンデラへの国際的な関心の高まりは、マンデラが投獄されてすぐに起こり始めていた。たとえば、1966年には、西ドイツが『リヴォニア裁判』という映画を制作した。これはマンデラの物語ではないが、マンデラにも着目した作品だった。これは欧米向けにつくられた作品であり、当時の南アフリカでは上映されなかった。 その後、南アフリカのアパルトヘイトへの国際的な非難と圧力が強まり、その殉教者としてのマンデラへの関心が高まっていく。1985年の国内の混乱と戒厳令そして国際的な経済制裁の強まりの中で、1987年に映画『マンデラ』が制作された。 これはフィリップ・サヴィル監督の作品であり、欧米向けのものだった。この反アパルトヘイト闘争の絶頂期に、マンデラをまさに反アパルトヘイトの闘士として、南アフリカ黒人の待望の救世主として描き出した。 この作品では、マンデラ自身のそれまでの演説の上演や手紙の朗読も含められている。本作はマンデラの政治活動を映画化することで、反アパルトヘイトの国際的なキャンペーンの一翼を担った。 同時に、本作はネルソンと妻ウィニーのラブ・ロマンスの物語でもある。それは欧米映画作品として、欧米の観客をターゲットにした販売戦略であった。 その後、1990年にマンデラが釈放され、1994年に大統領になる。その結果、マンデラのドキュメンタリー番組や映画が一挙に増えていく。 たとえば、ABCニュースのドキュメンタリー番組『マンデラ:その男と国』(1990年)、 ディスカバリー・チャンネルのドキュメンタリー『マンデラ 自由への闘い』(1995年)である。 映画『マンデラ:アフリカの息子、祖国の父』(1996年)は、アカデミー賞にノミネートされた。 アメリカン・ケーブル・ネットワークのテレビ番組『マンデラとデ・クラーク』(2005年)、『グッドバイ・バファナ』(2007年)、『自由の色』(2007年)、さらに妻にかんする『ウィニー』(2011年)などである。自伝『自由への長い道』もまた映画化された。 マンデラ自身は映画やテレビのようなマスメディアを効果的に利用しようとする人物だった。優れた政治的パフォーマーだった。 そもそも、紙メディアの自伝『自由への長い道』は反アパルトヘイトや民主化などの道具でもあった。それをより効果的にするために、マンガ化も行っていた。マンデラはこのように、様々なメディアを駆使して自身の公的イメージをつくりあげ、政治的目的を達成しようとした。
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Herwitz , Daniel. Race and Reconciliation: Essays from the New South Africa . Ann Arbor : University of Michigan Press , 2003 .
Mangcu , Xolela , ed. The Meaning of Mandela: A Literary and Intellectual Celebration . Cape Town : HSRC Press , 2006 .
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Rita Barnard(ed). The Cambridge companion to Nelson Mandela . Cambridge : Cambridge University Press, 2014
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- ネルソン・マンデラの自伝『自由への長い道』