黒谷の梅から東北院軒端梅を歩く
黒谷の梅から東北院軒端梅を歩く 石段の上に、くろ谷さんのシンボルとして写真によく使われる楼門が建つ。 楼門を潜ると、左手に「勢至丸(せいしまる)」の銅像がある。開祖法然上人(1133〜1212年)の幼少の頃の姿である。
石段の上に、くろ谷さんのシンボルとして写真によく使われる楼門が建つ。 楼門を潜ると、左手に「勢至丸(せいしまる)」の銅像がある。開祖法然上人(1133〜1212年)の幼少の頃の姿である。 金戒光明寺は、十五歳で比叡山に入られた上人が、四十三歳の時に念仏の教えを広めるため比叡山を下り、黒谷の山頂で最初に念仏をされたところで、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことから、この地に浄土宗として最初の寺院となる草庵をむすばれたところであると、寺伝に伝える。
煙突の突き出た清和殿に向かって右手の坂を下ると、春日の局が整備した蓮池である。 蓮池にかかる極楽橋の袂に白梅が花を開かせている。清らかな白い花越しの長い石段の先に文殊塔が見えた。これもまた絵になる。 真っ青な空から降り注いでくる光をいっぱい浴びて、透き通る花弁が目映いばかりである。微塵の曇りもない乙女のようである。
石段を上りだすと、赤い矢印の入った「江 供養塔」の案内があった。 著名な先人の墓碑が数多い広い墓地をどうして探そうかと少々不安があったのだが、特別公開メニューの目玉になっているようで、立て看板が用意されていた。
処構わずの無粋な立て看板であったが、案内なしに探すのは並大抵なことではない。 今までにも何回か歴史に残る人物の墓参のため、歩き回った苦い経験がある。 なぜなら、墓碑は俗名ではなく戒名である上に、風化した文字は判別し難いのである。 しかし、その苦さは観光化されていない点で嬉しいことでもあるのだが。
時の権力者の威光を表すかのごとく立派な供養塔である。 顕彰の碑文には「徳川秀忠夫人崇源院」と、供えられていた年始供養の塔婆には「秀忠公正室お江の方 為崇源院殿一品大夫人昌誉仁清 黒谷本山」と記されていた。
次なる梅は会津藩士352名の墓所で、その菩提寺となる塔頭「西雲院」である。 積み上げられた大小の無縁となった墓石を横目に、会津藩墓地に続く道を歩くと、突き当りが西雲寺の山門である。 崇源院供養塔と比べて、名家名士であったと思しき如何なる大きな墓碑や石仏の、供養するものがいなくなった時の無常や儚さを、道すがら感じた。
咲いている。咲いている。堂の軒端に咲いている。 雲ひとつない青い空に白き綿帽子のように、高い枝先に白いものをつけている。 小さくて分かり辛いが、間違いなく白い花である。 その木は昇り竜のように太い幹をくねらせて、天に向かって伸びている。
足早に小さな山門を潜り境内に駆け込んだ。 造り込まれてはいない境内の空き地は月極駐車の車が停められていた。 さも歴史を誇るかに相応しい達筆で、「軒端梅」と揮毫された札が建っている。 その老木の木肌は痛々しいぐらいに傷んでいるが、その枝振りに見られる風格は只者ではないことが誰にも分かるほどである。
年立ち返る春なれや、年立ち返る春なれや、花の都に急がん。 是は東國方より出たる僧にて候、我いまだ都を見ず候程に、此春思ひ立ち都に上り候。 春立つや、霞の關を今朝越て、霞の關を今朝越て、果はありけり武蔵野を、分暮しつつ跡遠き、山又山の雲を經て、都の空も近づくや、旅までのどけかる覽、旅までのどけかる覽。 急候程に都に着て候、又これなる梅を見候へば、今を盛と見えて候、如何樣名のなき事は候まじ、此あたりの人に尋ばやと思ひ候