「戦争を知る」真冬でもはだし登校。軍事教育を受けていた戦時中の子供たち
「戦争を知る」真冬でもはだし登校。軍事教育を受けていた戦時中の子供たち

「戦争を知る」真冬でもはだし登校。軍事教育を受けていた戦時中の子供たち

今日12月8日は、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が始まった日です。 今年、開戦から80年の節目を迎えました。これま

2024年8月3日(土)に、戦争を語り継ぐお話会を開催します。(MBC内 tegeラボ) 戦争を体験された方の話をコツコツと集め、紹介してきた「てのん」が初めて開催するお話会。お話会では、母親の体験をまとめた本「私が子供だった.

忍び寄る戦争の影~開戦前から始まっていた戦時体制~

1937年(昭和12年)7月、私が4歳の時、日中戦争がはじまります。日本と中国との戦争で、昭和20年8月の終戦まで続く戦いです。私は幼かったので記憶はないのですが、父は日中戦争がはじまった頃、軍人として日中戦争に行きました。 日本は大陸に目を向け、領土拡大を目指し始めていました。そして、だんだん軍の力が強くなり、軍国主義が強まっていきました。

そして、1939年(昭和14年)9月、私が尋常高等小学校1年の時、ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が勃発します。日本の軍部は、ドイツやイタリアと手を組んで、当時、イギリスやアメリカなどの植民地となっていた東南アジアを、日本の支配下におこうとしました。 戦争を遂行していくために、国民にも耐乏生活を強いるようになります。翌年の1940年に東京で初めて「贅沢品は敵だ!」という看板が立てられました。そして、その考えは全国に広まっていくのです。

尋常高等小学校2年の時、この紀元2600年祝賀行事があったのを記憶しています。正確な記憶ではありませんが、祝賀行事では「日本の歴史は2600年と長い間続いてきている。こういう歴史のある国は、日本くらいしかない。日本は優れた国である」というような話があり、みんなで奉祝国民歌を歌ったと思います。今もそのメロディーは耳に残っています。 ♪金鵄(きんし)輝く日本の 栄えある光 身に受けて いまこそ祝へこの朝(あした) 紀元は2600年♪

尋常高等小学校から国民学校に

昭和16年4月、国民学校令により、尋常高等小学校という名称が国民学校に改められます。私が小学3年生の時です。 なぜ国民学校になったのか、改めて調べてみました。国民学校の目的は、皇国の道に則って初等教育を施し、国民の基礎的錬成を為すとなっています。つまり、最高目標が皇国民の錬成にあり、その教育方法として強化されたのが、国民としての統一的人格の育成を期することでした。学校を「国民錬成の道場」となるようにし、団体行動やかけあし訓練が強いられ、「勝つまでは」という絶対の制約として「必勝の信念」「堅忍持久」の精神がたたきこまれるようになります。つまり、教育に国家主義的色彩が濃厚に加味され、教育も戦時体制になっていくのです。お国のために命をおしまない国民になるよう誘導していったということになります。(文部科学省 学制百年史編集委員会より)

そのほかの昭和16年の動きをみてみますと、3月に国家総動員法改正公布(これで、政府の権限が大幅に拡張される)。4月に生活必需物資統制令公布(大都市では、米の配給制がはじまる) 文部省が音階教育をハニホヘトイロハに改正(ドレミ~は敵国語だとして)8月に金属類回収令公布。 11月に国民勤労報国協力令公布(男子14歳~40歳、未婚女子14歳~25歳の勤労奉仕義務化)などの法令が次々と公布されています。 戦争を遂行するために、教育も変わり、国民にいろいろな制約や義務を課していたことがわかります。 そして、昭和16年12月8日をむかえます。

太平洋戦争はじまる

「戦争を知る」一番のごちそうは「出征祝」で出された鶏の煮つけだった・・ 79年前の今日、太平洋戦争が始まりました。 戦争体験者の高齢化が進み、記憶の風化が言われる中で、私たち「てのん」では、少しでも戦争の記.

一年中はだし登校に・・

厳しい学校生活

学校の校門の横には、奉安殿(ほうあんでん)がありました。奉安殿とは、天皇陛下の写真(御真影)と、教育勅語を納めていた建物のことで、当時は、どこの学校にも建てられていました。私達の学校の奉安殿も、漆喰で塗られた白い壁に、銀色の瓦屋根のある立派な建物で、奉安殿の前には玉砂利が敷かれていました。朝登校して来たら、まず、校門で身だしなみを整え、奉安殿に向かって二礼二拍そして一礼しなければなりませんでした。 そして、毎朝必ず朝礼がありました。校長先生が朝礼台に立ち、まず、教育勅語を全校生徒で声に出して暗唱しました。

教育勅語とは、明治23年(1890年)に発布された日本の教育基本方針を示した天皇の言葉で、天皇が国民に教え諭す形のものでした。教育勅語では、天皇につかえて国に奉仕することが国民道徳の根本とされ、天皇崇拝を国民に浸透させる役割がありました。特に戦争中は、国民が戦争に協力する上で精神的な支えとされました。(出典 ポプラ社 ポプラディアより)

朕(ちん)惟(おも)フニ、我(わ)ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん)ニ、徳ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ・・・

授業も軍事色の強いものに・・

次に授業について、書きたいと思います。 国民学校3年生になって、まずがらりと変わったのが教科書でした。国語の教科書も「サイタ サイタ サクラガサイタ」から、「ススメ ススメ ヘイタイススメ」に変わります。 国民学校では、国語・算数などの教科の他にも、国史・修身・武道などの授業もありました。何年生の時に習ったかまで、はっきりと覚えていませんが、修身や国語の授業の中で、楠木正成(くすのきまさしげ)の話や、爆弾三勇士(ばくだんさんゆうし)の話がありました。

爆弾三勇士の活躍を紹介する新聞 三勇士の花瓶や皿、メダルなども作られた(久留米の風景とくらし展より)

軍歌に感動する

♪海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ (うみゆかば みづくかばね やまゆかば くさむすかばね おおきみのへにこそしなめ かへりみはせじ)

少年飛行兵になりたい

小学4年の時の授業でした。先生が「皆さんは、将来、何になりたいですか?」と質問されました。私は「少年飛行兵になって、米英をやっつけたいです」と、胸を張って答えました。 しかし先生は「女子は少年飛行兵になれないのですよ」とおっしゃいました。私は「どうしてですか?」と質問すると、先生は、「女子は銃後(じゅうご)を守るのが務めです。飛行機に乗らなくても、戦地に行って戦わなくても、勤労奉仕をしたり、陰で兵隊さんを支える事で、ちゃんとお国を守っていることになるのですよ」と話されました。先生のおっしゃる事はわかったのですが、私は少年飛行兵になれない事が悔しくて、そのあと泣いてしまいました。 その頃の子供たちの夢は、兵隊になること、航空パイロットになること・・みんな、軍隊にあこがれを持っていました。

軍国少女だった

軍事教育から民主教育に

戦争が終わると、教育の方針が大きく変わります。戦後、新しい教科書が出来るまでの間、それまで使っていた戦時中の教科書が使われましたが、国家主義や戦意を鼓舞する内容の部分に、子供自身の手で墨を塗って教科書を修正したのです。いわゆる「墨塗り教科書」です。