竹田の子守唄とは? わかりやすく解説
竹田の子守唄とは? わかりやすく解説

竹田の子守唄とは? わかりやすく解説

竹田の子守唄とは? 「竹田の子守唄」赤い鳥 の シングルB面「翼をください」リリース1971年(昭和46年)2月5日規格シングルレコードジャンル民謡フォークソングレーベルリバティ(東芝音楽工業)作詞・作曲(日本民謡)チャ...

1960年代の後半、うたごえ運動の展開を背景として京都の伏見区で採譜・編曲され、初めは合唱曲として歌われた。その後関西フォークの歌手たちのレパートリーとして取り上げられ [ 2 ] 、「赤い鳥」の歌唱によってその叙情的なメロディーと歌詞とが評判になる [ 3 ] 。 しかし、歌詞と被差別部落との関係が取り沙汰されるようになると、放送自粛の動きが広まり、「放送で流されることのない歌としてはもっとも有名なヒット曲の一つ」となった [ 4 ] 。

経緯

採譜から合唱曲へ

『竹田の子守唄』を採譜したのは、作曲家の尾上和彦である。1960年代半ば、うたごえ運動が広まる中で大学や労働団体には合唱団や合唱サークルが立ち上げられており [ 5 ] [ 2 ] 、尾上は「多泉和人(おおいずみ かずと)」のペンネームで作曲活動や民謡採譜のかたわら、これらのサークルに講師として招かれていた [ 6 ] 。尾上は1962年12月から京都伏見区の竹田地区を訪れており、1964年2月からは部落解放同盟竹田深草支部(当時)の文化サークルとして組織された「はだしの子グループ」へのレッスンを開始していた [ 7 ] [ 8 ] 。

この年、東京芸術座による公演『橋のない川』の舞台音楽を担当することになった尾上は、12月になっても楽曲を完成できずにいた。翌1965年1月の公演が近づく中、尾上は創作のヒントを得るために、彼の下宿に居候していた「はだしの子」のメンバーである野口貢 [ 注釈 2 ] の実母、岡本ふく(1914年 - 1983年) [ 注釈 3 ] を竹田地区に訪ねた。岡本ふくは三味線を弾きながら尾上のために「長持ち歌」など約20曲を歌い、これを尾上が録音した。ふくが歌った「守りもいやがる、盆からさきにゃあ、雪もちらつくし、子もなくし、コイコイ」という「コイコイ節」に強烈な印象を受けた尾上は、この歌の旋律をほぼ一晩で作り直し、1月5日に関西テレビでスタジオ録音、12日からの東京芸術座の公演にこぎつけた [ 7 ] [ 8 ] 。

尾上は依頼を受け、この曲を女声のための合唱曲として編曲し、歌詞を付け直した。これが「竹田の子守唄」である。「はだしの子」では1965年1月29日にこの歌の初レッスンがあったが、それ以前に、尾上が指導する他の団体でもこの曲が採り上げられていたと考えられる。合唱曲の依頼者については、同志社大学の合唱団「むぎ」、京都電通合唱団、全日本自治団体労働組合(自治労)京都合唱団のいずれかはっきりしない [ 8 ] 。藤田によれば、合唱団「むぎ」のメンバーだったとする [ 9 ] 「はだしの子」のレッスンで尾上は、これは「五木の子守唄」に匹敵するすごい曲だと言い、メンバーたちに曲の内容について話し合いをさせた。尾上は同年3月に開かれた部落開放第10回全国婦人集会の記念文化祭に向けてこの曲を歌唱指導し、その後は「日本のうたごえ」祭典への出場をめざして練習を続けた。その過程で10月に「はだしの子」は合唱団「はだし」に発展的解消を遂げている。神戸での予選を通過し、11月東京での本選で合唱団「はだし」は「竹田の子守唄」と「こぶしかためて」 [ 注釈 4 ] の2曲を歌って地域の部の激励賞を受賞した [ 8 ] 。

関西フォークからの広がり

フォーク歌手の大塚孝彦が「竹田の子守唄」を知ったのは、1965年か1966年、尾上が指導する同志社大学の合唱団「むぎ」の演奏会だった。大塚は合唱曲の楽譜を入手すると、ギター伴奏に合うようにアレンジを施し、高田恭子(1948年 -)と二人で歌い始めた。「竹田の子守唄」の初録音は、この二人によるものである [ 9 ] [ 注釈 5 ] 。 1969年には高石ともや(1941年 -)がアルバム『坊や大きくならないで 高石友也フォーク・アルバム第3集』(ビクター)でこの歌を録音している [ 11 ] 。

赤い鳥

大塚と高田のデュエットによる「竹田の子守唄」を聴いて、感銘を受けたのが後藤悦治郎である。後藤は関西フォークの定例コンサートで二人の歌を聴き、後に結婚する平山泰代と二人で歌い始めた [ 11 ] 。1969年3月、後藤悦治郎は5人グループ「赤い鳥」を結成する [ 11 ] 。 同年11月に開催された第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストに出場した「赤い鳥」は、「竹田の子守唄」と「COME AND GO WITH ME」を歌い、小田和正が在籍するジ・オフ・コース(後のオフコース)や財津和夫が率いるザ・フォーシンガーズ(後のチューリップ)らを抑えてグランプリを獲得する [ 11 ] 。

録音

「赤い鳥」のデビュー・シングル盤は「お父帰れや/竹田の子守唄」(1969年10月、URC)だが、URCはインディーズレーベルの先駆け的存在であり、メンバーたちにプロになる気はなかった。しかし、作曲家で音楽プロデューサーの村井邦彦(1945年 - f)からアルバム1枚だけでもレコーディングしないかと請われ、シングル「人生/赤い花白い花」(1970年6月、同)とアルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』(1970年8月、日本コロムビア)を制作する。この2枚が「赤い鳥」のメジャー・デビューとなった [ 13 ] [ 12 ] 。

シングルA面の「人生」とアルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』の収録曲である「JINSEI」は同一音源で、「竹田の子守唄」のメロディに山上路夫による歌詞を載せたものである [ 注釈 6 ] 。村井によれば、「竹田の子守唄」の歌詞が何を言っているのかよくわからないことがその理由だった。しかし、元の歌詞ほどの訴求力はなく、納得がいかない後藤はもう一度元の歌詞で出したいと強く要望した [ 14 ] 。ディレクターの新田和長からも原曲が良いという意見があり [ 15 ] 、1971年2月に通算4枚目のシングル盤となる「竹田の子守唄/翼をください」を東芝音楽工業(後のEMIミュージック・ジャパン)からリリースした [ 14 ] 。これが発売後約3年で100万枚のセールスを超える大ヒットとなった [ 4 ] [ 注釈 7 ] 。

1960年代の終わりから1970年代の数年にかけて、「竹田の子守唄」はジローズ、由紀さおり、ダークダックス、上月晃、水前寺清子ら多くの歌い手によって録音されるようになっていた [ 4 ] 。このころ広告代理店の主導によって美しい日本の再発見を提唱するキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」が展開されており、歌謡界では「竹田の子守唄」と同じ1971年に「わたしの城下町」や「知床旅情」がヒットしている。音楽評論家で『竹田の子守唄 名曲に隠された真実』の著者である藤田正は、当時各地で公害が社会問題化しながらも日本が経済的な急成長を止めようとしなかったことに対し、これらの流行歌はある種の免罪符・目隠しのような役割を果たしたとする [ 4 ] 。

歌の出所と歌詞をめぐって

シングル盤が大ヒットした1971年4月、伝承歌はその文化背景を学んだ上で歌うべきと考えていた後藤は、「赤い鳥」の原点ともいえる「竹田の子守唄」の出所が不明なことに後ろめたさを感じ、友人で作家志望の橋本正樹と共同してこの歌について調べ始めた。橋本は、ある女性から歌詞にある「在所」が京都では被差別部落を意味すると教えられ、1970年に出版された『京都の民謡』(音楽之友社)に「竹田の子守唄」が紹介されており、京都市伏見区竹田で採譜されたものだと知った [ 16 ] 。 後藤は、『京都の民謡』に掲載されていた「久世の大根めし、吉祥の菜めし、またも竹田のもんばめし」という歌詞に注目し、シングル盤の2番の歌詞「盆がきたとて なにうれしかろ……」の代わりに差し替えてライヴで歌い、ステージでこの歌の出所について詳しく語るようになった [ 17 ] 。なお、この歌詞で「竹田の子守唄」を歌って最初に録音したのは、加藤登紀子である [ 18 ] 。

一方、橋本は日本音楽研究会のメンバーでもあった採譜者の尾上和彦と会い、尾上の紹介で野口貢とその母親の岡本ふくとも面識を得た。1972年1月、橋本は岡本ふくを伴い、京都勤労会館で開かれたフォーク・コンサートに出演した「赤い鳥」と彼女を引き合わせた [ 18 ] 。 このとき岡本ふくは、「ええかったがナァ」と感想をもらしつつ [ 19 ] も、メンバーたちに対し「久世の大根めし……」の歌詞を歌わないでほしいと強く頼み込んだ。「寝た子を起こす」ようなことをしてくれるな、というのが彼女の意思だった [ 18 ] 。野口によれば、母親は鹿の子絞りの仕事仲間から、誰がこんな歌を教えたのかと苦情を言われていた [ 20 ] 。橋本によれば、岡本ふくは恥といっても竹田だけならまだしも、久世や吉祥の名前まで出してしまったことを一生の悔いだと語ったという [ 4 ] 。 しかし後藤は迷いながらも、積年の部落問題を見据えてこの歌詞を積極的に歌い続けることにした。これに対し、美しい歌は美しく、それで十分とする意見があり [ 17 ] 、グループ内に対立が生まれた [ 18 ] 。「赤い鳥」の知名度が上がり、「竹田の子守唄」が有名になるにつれて、両者の溝は深まっていった [ 17 ] 。

放送自粛

1970年代に入り、「竹田の子守唄」が有名になるにつれて、ちまたではこの曲と被差別部落の関係が囁かれるようになった [ 21 ] [ 4 ] 。例えば、竹田地区出身の作家土方鐵(1927年 - 2005年)は、1971年に「竹田の子守唄」の竹田が京都伏見であることを『朝日ジャーナル』誌に投稿している [ 4 ] 。放送メディアは、歌に部落が出てくる(らしい)から、歌が部落を歌っている(らしい)から、というだけの理由でこの歌を忌避するようになった [ 21 ] [ 4 ] [ 22 ] 。

「赤い鳥」の後藤悦治郎によれば、ラジオやテレビで「竹田の子守唄」を演奏してはいけないとは言われないが、はっきりした根拠を示すことなく、できれば外してもらいたい、ほかにいい曲があるからそっちをやってくださいという断られ方が多かった [ 4 ] 。 「赤い鳥」のデビュー・アルバム『FLY WITH THE RED BIRD』は、1975年に日本コロムビアから再発売されたが、この時点では収録曲に変わりはない。ところが、1998年にアルファミュージック/東芝EMIからCD発売されたときには、それまで収録されていた全12曲から「JINSEI」が除かれて11曲となっている [ 23 ] 。

関係者への取材

森の取材を受けた当時の部落解放同盟京都府連合会書記長・中央本部教宣部長西島藤彦は、「手紙」、「チューリップのアップリケ」、「竹田の子守唄」を知っているかと聞かれて、「どれもよく知っています」、「若い頃、ムラの中ではよく皆で歌っていましたよ。だからどうしてこんなにいい歌が、世に広まらないのか私も不思議に思っていたのだけど…」と答え、過去に解放同盟が抗議したことはなく、これらの曲が放送禁止歌に指定されている [ 注釈 8 ] ことさえ今まで知らなかったと述べた [ 27 ] 。 「はだしの子」のメンバーだった野口も、実際にこの歌に関して運動側からの抗議などはなかったと述べている [ 28 ] 。

藤田によれば、当時、部落問題にかかわると痛い目に遭う、避けた方が得策だという偏見やイメージが持たれており [ 4 ] 、「竹田の子守唄」の歌詞にある地名が歌われることによって、どこに被差別部落があるか知らしめてしまい、厳しい抗議を受けるのではないかという危惧があったとする [ 23 ] 。 人権連の川部はこれについて、1974年の「八鹿高校事件」における集団リンチや翌75年の「特殊部落地名総鑑」問題などを通じて「同和タブー」が形成され、部落の地名の使用について解同が「差別」だといえば、使用者の意図に関係なく「差別」と断定される(朝田理論)ようになっていったことが背景にあると指摘している [ 24 ] 。

元唄の伝承

「そして明日は」の放送は竹田地区でも話題となった。これをきっかけとして、武村やすが歌う録音された「元唄」が記録され、「こいこい節」などとともに伝承する取り組みが始まった。部落解放同盟改進支部女性部では、元唄と「竹田こいこい節」をレパートリーとした活動を始め、2001年2月の「第6回ふしみ人権の集い」において元唄を披露している [ 30 ] 。この集いには「紙ふうせん」の二人も参加して彼らの「竹田の子守唄」を歌った [ 31 ] 。その後、メンバーの高齢化により活動を休止していたが、2022年に部落解放同盟府連合会女性部によって再開している [ 32 ] 。

変化のきざし

メロディーと歌詞

守り子唄について 明治の写真家日下部金兵衛が撮影した子守り娘たち

藤田によれば、子守唄には大きく三つの流れがある。「寝かせ唄」、「遊ばせ唄」、「守り子唄」である。「竹田の子守唄」はこのうち「守り子唄」に相当する [ 35 ] 。 「守り子唄」の成立はさして古いものではなく、森によれば明治の中ごろと推察され、民謡や童謡の多くがこのころに成立している [ 36 ] 。これには、江戸末期から明治にかけて、封建社会から近代資本主義社会へと急速に変化していく過程で、裕福な商家や農家が安い労働力を求めたことに背景がある。貧しい家庭に生まれた少年少女が、期間を定めて丁稚や小僧などの下働きや茶つみなどの季節労働、野良仕事、家事などの仕事をこなす「奉公」と呼ばれる労働形態が生まれた。守り子もそのひとつである [ 35 ] 。したがって、守り子唄には労働歌としての性格がある [ 36 ] 。

日本音楽研究会『京都の民謡』(1970年) 赤い鳥による歌唱(1971年) 右田伊佐雄による旋律の比較(1978年)

民謡研究家で『大阪の民謡』(1978年)の著者右田伊佐雄(1928年 - 1992年)は、「竹田の子守歌」について、原曲、尾上和彦の作曲、「赤い鳥」らによる歌唱による旋律を次のように比較している [ 44 ] 。 なお、下記B. よりも上記『京都の民謡』の掲載楽譜が半音高いキーとなっているのは、合唱団での歌唱を考慮した尾上が調性を変更したためである [ 39 ] 。

右田によると、日本の民謡の大半は旋律の頂点を前半に置く形を取っている。これは祝祭の歌であれ仕事の歌であれ、神霊を鎮撫することが目的で歌われた「神守歌」が日本民謡の基本になっているためであり、子守歌の中でもとくに「寝させ歌」の場合は赤児を興奮させないためにほとんど例外なしに頂点前半形であるとする。逆に、西洋音楽では後半を盛り上げて終結に導く。尾上は原曲から後半部を高揚させており、西洋のスタイルに従った手法といえる [ 44 ] 。 歌の後半に頂点を持っていくことについて、尾上自身は、自分のつらいものを心の中に押し込まず外へ向けていく姿勢を音に込めており、そうした前向きな主張がこの歌を歌った若者たちの中にもあったと思うと語っている [ 19 ] 。彼が旋律を作る際に心に抱いていた音楽として、ロシア民謡の「赤いサラファン」、シベリウスの「フィンランディア」、黒人霊歌の「深き河」、アイルランドの民謡「ロンドンデリーの歌」などを挙げている [ 45 ] 。

また、B. で尾上は原曲の四度音程が持つ力強さを意識して、後半部にも四度上昇を用いているが、C. では、上昇を半拍ずらして遅らせ(10小節目、13小節目)、四度の幅を短三度に縮める(13小節目)という変更を加えている。これは耳で聴いた曲を再現する際に無意識的に歌い変えられたものである [ 44 ] 。 尾上が作った旋律を、フォーク歌手たちはギターに乗せるためにアレンジしていった [ 39 ] が、もともと四度の跳躍音型は北日本や日本海側の地域に多く、関西では少ないため、主に京都を中心とした彼らにとってより自然な形に変えられたと考えられる。この結果、原曲の力強さよりも関西の民謡らしい滑らかさと歌いよさが特徴づけられることになった [ 44 ] 。

高橋美智子『京都のわらべ歌』(1979年)

1979年に『京都のわらべ歌』を著した声楽家の高橋美智子は、「竹田の子守唄」について、まったく異なった二系統の旋律があるとする。高橋は計5種類の旋律を紹介しており、そのうち〔A〕から〔D〕までを下記に示す [ 46 ] 。〔E〕は「作曲 尾上和彦」とされており、上記右田の「B. 『橋のない川』のテーマ音楽」と同じであるため、省略した。

また、歌詞の5番「久世の大根めし 吉兆の菜めし」、6番「盆が来たとて なにうれしかろ」を並べて掲載している [ 46 ] 。すでに述べたように、「盆が来たとて」の歌詞は、高石友也が愛知県の子守唄から組み入れたものとされており [ 42 ] [ 43 ] [ 39 ] 、後に「赤い鳥」の後藤悦治郎がこれを外して代わりに歌ったのが「久世の大根めし」の歌詞である [ 17 ] 。

これに対して藤田は、「竹田の子守唄」は竹田地域にある被差別部落だけで生まれ育ったわけではなく、少なくとも関西地方のいくつかの部落との文化交流のなかで成長した歌だとする [ 22 ] 。 例えば「竹田の子守唄」に似た歌は、尼崎の被差別部落でも「チーコイターコイの唄」として伝わっていた。チーコターコイとは、「父恋し、母恋し」の意味ではないかとされている [ 47 ] 。森によれば、大阪の被差別部落でもよく似た歌が歌われているという [ 48 ] 。 世代によっても唄のメロディが違い、新しい地域とのつながりができるとその地区の唄が持ち込まれ、以前の節が捨てられるということがあった [ 49 ] 。伝承者各人によって歌詞の一部、メロディラインが異なり、歌詞の順序も決まったものではない [ 50 ] 。

録音された「元唄」(1981年)

「竹田の子守唄」の元唄とされるものとして、武村やす(1900年 - 1985年)がその晩年に近しい人に紹介した歌詞とメロディーが残されている [ 53 ] 。武村やすが守り子として働いていたのは、明治の終わりごろから大正にかけてであり、1910年(明治43年)前後と推定される [ 54 ] 。森によれば、彼女が最後の世代であり、元唄はすでに歌われていないという [ 36 ] 。

守りも一日 やせるやら どしたいこりゃ きこえたか

守りも楽なし 子も楽な どしたいこりゃ きこえたか

親の御飯が すむまでは どしたいこりゃ きこえたか

守りがどんなと 思われる どしたいこりゃ きこえたか

泣かぬ子でさえ 守りゃいやや どしたいこりゃ きこえたか

守り子いなして 門しめる どしたいこりゃ きこえたか

かわいがる子に 雨やかかる どしたいこりゃ きこえたか

来たら見もする 買いもする どしたいこりゃ きこえたか

またも竹田の もんば飯 どしたいこりゃ きこえたか

お父さん帰ったら 買うてはかす どしたいこりゃ きこえたか

お父さん病気で 寝てござる どしたいこりゃ きこえたか

難儀な親もちゃ うれしない どしたいこりゃ きこえたか

立てた鏡と わが親と どしたいこりゃ きこえたか

向こうに見えるは 親のうち どしたいこりゃ きこえたか [ 36 ]

また、武村やすよりも若い世代では、別の歌が歌われていた。「竹田こいこい節」は、「ねんねんころりよ ねた子はかわいい おきて泣く子は つらにくい こいこい」という歌詞で [ 54 ] 、元唄よりもテンポが速く、「どしたいこりゃ」に代えて「こいこい」という短いフレーズが繰り返される。このフレーズは岡本ふくが尾上和彦に歌って聴かせた中にも含まれていたものである [ 54 ] 。

歌詞の意味

明治40年ごろの高瀬川。かつて竹田地区には高瀬舟に従事する人々が遠くは四国から出稼ぎに来ており、「高瀬の船頭」という古謡も採譜されている [ 56 ] [ 57 ] 。 この在所こえて

これに対して、橋本正樹は歌い手が「竹田に子守りに来ていた」情景とし、「在所」を越えるという部分を「人間の誇りを主張し奪還するすべての行動」という意味と捉えた [ 59 ] 。藤田正もまた竹田で子守りしている情景であり、「脱出」を歌い込めていると述べている [ 60 ] 。高橋美智子も同じく「この里へ子守り奉公にきた守り子の歌である」としているが、「在所」の解釈については触れていない [ 61 ] 。

また、「在所」の意味についても、部落を指すのかどうか明確ではない [ 58 ] 。この言葉は京都では部落を意味することもあるが、関西では一般に生まれ故郷や国許、田舎を指す [ 22 ] 。森の取材では、京都では「在所」は被差別部落を指すが、大阪では一般の地域を在所と呼ぶのだという [ 58 ] 。さらに、上記武村やすの「元唄」のように、「この在所」を「あの在所」と歌う例もあり、歌詞の解釈を特定することはいっそう困難である [ 58 ] 。

竹田のもんば飯

この節は「赤い鳥」のシングルでは歌われておらず、後に後藤悦治郎によって「盆が来たとて」の歌詞と入れ替えられた [ 17 ] 。この歌を歌って採譜された岡本ふくは「ムラの恥をさらした」と後悔し [ 62 ] 、後藤にこの節を歌ってくれるなと申し入れた経緯がある [ 18 ] 。 久世や吉祥院は、竹田の周辺に所在する被差別部落であり [ 62 ] 、京都の子守唄には、伏見周辺の地名をふんだんに盛り込んだ歌詞が他にも伝わっていることから、藤田はこのような言葉の掛け合いの形式がこの節の元になったのではないかと推測している [ 63 ] 。

当時の被差別部落において、大根や菜っ葉は日常的な食材であり [ 62 ] 、それらを炊き込んだかて飯が主食だった。「もんば飯」の「もんば」とは、おからのことであり [ 62 ] 、おからを炊き込んだかて飯がもんば飯である。 「もんば飯」の解釈については、「竹田の子守唄CD制作委員会」では、久世や吉祥院のような大根飯や菜飯ならまだしもという意味だと説明されている。橋本は「もんば飯」をもっとも劣悪なものと捉えており、それをなぜわざわざ歌うのかといえば、守り子たちの「どん底の楽天性」からだとしていた。藤田も同様であり、もっとひどいことをさらりと流したものとした [ 64 ] 。

「赤い鳥」のその後

後藤悦治郎への取材

1974年の「赤い鳥」解散後、メンバーだった後藤悦治郎と平山泰代は「紙ふうせん」を結成した。1981年12月10日に朝日放送で放送された報道特別番組「そして明日は」に出演した紙ふうせんの二人は、「久世の大根めし」の歌詞を2番として「竹田の子守唄」を歌っている [ 29 ] 。 歌い終えた後藤は、「この唄が生まれた地域を、長く大分県の竹田市と勘違いしながら歌っていました」 [ 29 ] 、「自分はこの唄の本質を長く理解していなかった」と語った [ 65 ] 。

山本潤子への取材

中華圏における替え歌

録音した歌手、音楽家

1974年12月 - 1975年1月には、NHKの『みんなのうた』でペドロ&カプリシャスによって唄われたこともある(編曲はヘンリー広瀬) [ 69 ] 。唄は大幅にアレンジされ、2番の歌詞とコーダ部分が省略された。同時期放送の『北風小僧の寒太郎』が何度も再放送され、また他の楽曲 [ 注釈 11 ] も再放送されたが、本曲の再放送は1981年9月23日にNHK総合テレビで放送された特別番組『みんなのうた20年』で放送された(4番以外)のみで、定時番組での放送は長期にわたって行われなかったものの、2015年10月 - 11月にラジオのみで41年ぶりに再放送された。

ライブ、単発放送のみの演奏や歌唱は除く

  • 高田恭子 - 1967年、「大塚孝彦と彼のグループ」名義の自主製作盤でこの曲の最初の録音を残した [ 70 ] 。
  • 藤圭子のアルバム『圭子のわらべ唄/藤圭子とグリーメン』JRS-7174(1971年)収録。編曲:小杉太一郎。歌唱はグリーメン。
  • オフコース - 『秋ゆく街で』に収録 [ 71 ] 。
  • ジローズ - 『ジローズ登場 戦争を知らない子供たち』に収録 [ 72 ] 。
  • デューク・エイセス - 『デューク・エイセス 55周年記念盤』に収録 [ 73 ] 。
  • 髙橋真梨子 - 『infini tour'16 + Concert vol.1 1979 at よみうりホール』に収録 [ 74 ]
  • 吉岡忍 - 『BREITH』に収録 [ 75 ] 。
  • ソウル・フラワー・モノノケ・サミット - ロック・バンド「ソウル・フラワー・ユニオン」の別動チンドン楽団震災被災地慰問ライヴの中、同曲をカバーしているが(アルバム『アジール・チンドン』に収録 [ 76 ] )、のちに彼らは、竹田地区の人々との交流により二つの元唄ヴァージョン(『竹田こいこい節』『竹田の子守唄(元唄)』)をレコーディング、アルバム『デラシネ・チンドン』に収録した [ 77 ] 。また、ソウル・フラワー・ウィズ・ドーナル・ラニー・バンドとして『マージナル・ムーン』にも収録 [ 78 ] 。
  • 犬神サアカス團 - 『フォーエバー・ヤング〜トリビュート・トゥ・グレート・フォーク・ソングス〜』に収録 [ 79 ] 。
  • 勝田友彰 - 『ウチュウノウサギ』に収録 [ 80 ] 。
  • 花*花 - 『コモリウタ』に収録 [ 81 ] 。
  • 諌山実生 - 『ハナコトバ〜花心詩〜』に収録 [ 82 ] 。
  • 天童よしみ - 『美しい昔』に収録 [ 83 ] 。
  • 鈴木早智子 - 『零〜re-generation〜』に収録 [ 84 ] 。
  • 新垣勉 - 『日本を歌う』に収録 [ 85 ] 。
  • 宇崎竜童 - 『ブルースで死にな』に収録 [ 86 ] 。
  • INSPi - 『日本のココロ歌』に収録 [ 87 ] 。
  • 伊藤咲子 - 『みんなで学ぼう 童謡なぞなぞ』、『伊藤咲子全曲集 〜女の歌〜』に収録 [ 88 ] 。
  • 梅若晶子 - 『心から歌へ 梅若梅朝・晶子の民謡』に収録 [ 89 ] 。
  • rain book - 『童謡の風景3〜みんなで歌おう』に収録 [ 90 ] 。
  • 朝崎郁恵 - 『おぼくり』 [ 91 ] 、『かなしゃ 愛の歌』 [ 92 ] に収録。
  • 平林龍 - 『PARTIR パルティール〜旅立ち』に収録 [ 93 ] 。
  • 一青窈 - 『歌窈曲』に収録 [ 94 ] 。
  • 由紀さおり、安田祥子 - 『由紀さおり・安田祥子 童謡ベスト2』に収録 [ 95 ] 。
  • 民謡ガールズ - 『民謡ガールズ』に収録 [ 96 ] 。
  • 井上あずみ - 『日本の愛唱歌集 花の街』に収録 [ 97 ] 。
  • 五十嵐はるみ - 『ユー・メイク・ヒストリー』の題名でゴスペルジャズにアレンジ [ 98 ] 。
  • EPO - 『UVA』に収録 [ 99 ] 。

関連項目

  • 五木の子守唄 - 被差別部落の唄ではないが、同様の扱いで放送禁止とされていた。
  • 放送禁止歌 - 森達也によるドキュメンタリー番組(1991年)。「竹田の子守唄」も採り上げられた。2000年に書籍化。

脚注

注釈
  1. ^ 武島良成や高橋美智子は「子守歌」表記を使っているが、本項目では「子守唄」に統一した。
  2. ^ 野口は後の合唱団「はだし」の第2代団長となる人物 [ 8 ] 。
  3. ^ 川部や武島の表記では「岡本フク」だが、ここでは藤田の表記に合わせた。
  4. ^ 「こぶしかためて」は、1963年に尾上が「はだし」のメンバーと作った歌 [ 8 ] 。
  5. ^ 『THE FIRST & LAST/大塚孝彦とそのグループ』(1967年、キングレコード)に収録。グループ解散記念として、ザ・フォーク・クルセダーズの加藤和彦を招いて自主制作された限定300枚のLP盤 [ 10 ] 。
  6. ^ 「人生」・「JINSEI」の編曲は大野雄二。
  7. ^ シングルB面の「翼をください」は、山上路夫作詞、村井邦彦作曲。
  8. ^ 編集者注:「放送禁止歌」は森が使用した用語であり指定制度ではない。
  9. ^ 編集者註:掲載された楽譜の拍子指定は3/4だが、旋律は2/4拍子で書かれており、校正ミスかと思われる。3/4拍子ではスコア表示が困難なため、便宜上ここでは2/4拍子とした。
  10. ^ 川部によれば、岡本ふくは若い頃から全国を転々とする生活だったという [ 7 ] 。
  11. ^ 『みんなのマーチ』『鳩笛』『なかよしファミリー』。なお同時期の『みんなのうた』は、「本放送4曲・再放送3曲」構成だったが、この時は特別に「本放送5曲・再放送2曲」だった。
出典

関連文献

  • 橋本正樹『竹田の子守唄』1973年 - 後藤悦治郎の友人である著者が唄の起源を探した出来事をまとめたもの。自費出版 [ 1 ] 。

参考文献

  • 日本音楽研究会 編『京都の民謡』音楽之友社、1970年12月。
  • 右田伊佐雄『大阪の民謡』柳原書店、1978年10月。
  • 高橋美智子『京都のわらべ歌』柳原書店〈日本わらべ歌全集 15〉、1979年12月。ISBN4-8409-0015-9。
  • 伊藤玲子 編『日本歌曲選集』ドレミ楽譜出版社、1984年3月。
  • ISBN4-8108-0426-7。
  • 森達也『放送禁止歌』デーブ・スペクター 監修、解放出版社、2000年。
  • ISBN4-7592-5410-2。
    • 森達也『放送禁止歌』光文社知恵の森文庫、2003年。
    • ISBN978-4334782252。

    関連文献

    • 橋本正樹『竹田の子守唄』1973年 - 後藤悦治郎の友人である著者が唄の起源を探した出来事をまとめたもの。自費出版 [ 1 ] 。
    1. ^ ab藤田 2003, p. 159.

    1.別れの朝 - 2.さようならの紅いバラ - 3.そして今は - 4.ジョニィへの伝言 - 5.五番街のマリーへ - 6.わたしは旅人 - 7.わが町は - 8.手紙 - 9.カレンダーガール - 10.陽かげりの街 - 11.メリーゴーラウンド - 12.愛をつくろうメキシコで - 13.やっぱり別れます - 14.ライラック・ポイント - 15.やさしい魔女たち - 16.ママ - 17.シルキー・シルバーレイン - 18.デイ・ドリーム・オーシャン - 19.ヨコハマ・レイニー・ブルー - 20.無口な夏 - 21.Stone Cold Lover - 22.風物語 - 23.oh. Baby love - 24.酔いどれマリアが歌う店

    1.別れの朝 - 2.さようならの赤いバラ - 3.華麗なるニューポップスの世界 - 4.ONCE AGAIN - 5.POPULAR RENASCENCE - 6.摩天楼 Around the World - 7.愛の旅人 - 8.タロット・カード〜河口湖より愛をこめて - 9.オアシス - 10.サン・パティオ - 11.ヨコハマ・レイニー・ブルー - 12.Treinta Anos - 13.ALIVIO - 14.ペドロ&カプリシャス/CADENA

    1.お気に召すまま〜ペドロ&カプリシャスの全て - 2.夜の紅茶〜ザ・ベスト・オブ・ペドロ&カプリシャス - 3.夜明けの匂い - 4.ジョニィとマリー - 5.やっぱり別れます '78 - 6.Very Best - 7.マイ・セレクション - 8.BEST HIT ペドロ&カプリシャス - 9.BEST of NAO, MARIKO,& YOKO - 10.Super Twin ペドロ&カプリシャス - 11.ベスト・セレクション - 12.ベスト・コレクション - 13.GOLDEN☆BEST ペドロ&カプリシャス

    1.RECITAL 1975 - 2.Special Live 1977

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